2011年9月21日水曜日
怒りと怨みの違い。「ジョーク」について。
この写真は先日、9月11日に行われた反原発デモのヒトコマですが、写真中央にある「怨」の文字を見て、引っかかるものを覚えました。
電力利権が国民を騙し続けてきたこと、原発の危険性が隠されていたこと、今も国民すべてに放射能が降りかかっていること。などを考えると、人々が怒るのは当然のことです。私も怒っています。
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怒りは人間にとって健康的な感情です。怒りは自己を形成するために必要なもので、他の動物には見られない人間固有の表現活動にも繋がります。
でも、この怒りを正しく表現できなければ、その感情は心の中で腐敗・熟成していき、やがて「恨み・怨み」へと性質が変わります。これはあまり健康的な感情とは言えません。
心が恨み・怨み(ルサンチマン)で占められると、他者の否定とともに自己否定のループに陥ってしまい、極めて不安定な心理状態となります。こうなると、判断力は鈍り、論理性が失われます。そして世界への憎しみが、自己の中心に位置づけられてしまいます。
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なにより致命的なのは、自己のなかに「恨み・怨み」を抱えてしまうと、ヒューモア(ジョーク)が失われるということです。これは人の在り方を変えてしまう事態です。
私は「ヒューモア(ジョーク)は、論理性の象徴である」と考えています。論理性を持たない者はうまくジョークを言えないし、他人のジョークを理解できない。論理性のない人は、客観的な視点を持たず、生きる意欲を失ったり、暴力的になったりします。そして、他者への想像力も働かなくなります。
ちなみに、ここで言うジョークとは、いわゆる冗談といった一般的な意味合いとは別に、哲学的な概念も含んでいます。震災とはまったく無関係に、私は長らく、この「ジョーク」という概念を考え続けてきました。なのでその意味合いは、自分では分かっているつもりなのですが、人に説明しようとするとなかなか難しい。
ムリヤリ言葉にしてみると「『言葉』の不完全さを自覚しながら発せられる言葉や行為」、あるいは「『言葉』の持つ曖昧さ、不完全さを自覚した“フリ”をすること」といった感じになります。やっぱり難しい。
この「ジョーク」は言語哲学、実存哲学、プラグマティズム的考えに基づく概念です。「ジョーク」が成り立つために、必ずしも笑いが必要というわけではありません。
でもまあとにかく、面白いジョークを飛ばすためには、周囲の環境、自分の精神状態を客観的に観察できていることが必要である、と。それにプラスして、言葉の不完全さに対する自覚もあれば、ということです。
この「ジョーク」の分かりやすい例として「フランス兵の命を救った架空の少女」が挙げられます。
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第二次大戦中に、ドイツ軍の捕虜となったフランス兵たちが、満足な食料も与えられず、衛生状態も悪いなかで、厳しい状況にさらされていました。
皆が生きる希望を失いかけたとき、フランス兵のリーダーが、皆が囚われている部屋の片隅に1脚の椅子を置き「この椅子に座る架空の13歳の少女を想像しよう」と全員に告げました。
全員がそれぞれに少女を思い描き、その存在を感じました。フランス兵たちは、毎日少女に話しかけ、冗談を言い、また少女に失礼の無いように振る舞いました。なかには、餓死しそうなほどの量しかない食べ物の一部を、少女のためにとっておく者もいました。
やがて戦争が終わり、捕虜が解放されたとき、このフランス兵の一団は、皆が精神の均衡を保ち、全員が無事生還できたのです。
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ここでのジョークは「架空の少女を全員で真剣に思い描いたこと」です。ジョークは真剣であればあるほど、面白く、効果的となります。
この話は実話として伝えられていることが多いのですが、実際はフランス人小説家のロマン・ガリー(ロオマン・ギャリイ)が書いた「自由の大地(原題『天国の根』)」という物語のようです。実話か完全なフィクションかどうかは不明ですが、「ジョーク」の在り方を見事に表していると思います。(このエントリを書いたあとで、古本で「自由の大地」を購入しました。まだ全部は読んでいないのですが、かなり長い長編小説で、そのなかの短い挿話として「フランス兵の命を救った架空の少女」が描かれていました。内容は、私の又聞き、うろ覚えの話と似て似つかぬものだったのですが、このエントリ内の話はそのままにしておきました。追記も参照のこと)
私は、シリアスな事態であればあるほど、ヒューモアは重要さを増す、と考えています。極限の状況下では、ジョークが自分の身を守る術になり、命を救うこともあるのです。
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怒りの感情が恨み・怨みに変わると、論理性が失われ、論理性が失われると、ヒューモアが失われます。そしてヒューモアが無くなると、ジョークが言えない・理解できない人間になってしまいます。
そんな人間は、すごく面倒で、あまり近づきたくない存在です。ただでさえ狭い人間の視野がさらに狭まり、ただ憎しみだけを周囲にぶつける。こうした「怨み」の感情は、殺人や紛争・戦争の原因に繋がるのではないかと思います。
政府、東電、保安院、原子力安全委員会、大手マスコミ、原発を推進してきた自民党、利権をむさぼる御用学者……etc。これらの存在に対して、私も人生最大といっていいほどの怒りを感じています。でも、その怒りを自分のなかで「怨」に変えてはいけないのです。
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いまいち分かりにくいエントリですね。ちなみに、私は自分が死ぬときにどんなジョークが言えるか、ということを楽しみに生きています。
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追記:2011/09/25 5:26
この本の覚え書きにフィクションとありましたので実話ではありません。そして、内容も私の知っているものとはかなり違っていました。架空の女性を作り出したことは一致していますが、13歳とは書かれておらず、また食べ物をとっておく話や、生還したという話もありませんでした。したがって、私の書いた話は、ロオマン・ギャリイ氏の書いたものとは異なるもので、伝聞によるお話です。エントリの内容を考えて、訂正せず、そのままにしています)
この気持ちのあり方は大切ですね。
返信削除日々唖然とするような出来事が展開されているから、なおさら必要に思います。
何が要因であれ人は必ず死ぬ訳ですから、それまでの人生を楽しむ心は常に持ちたいですね、例えどんな状況下であっても。
こんにちは!
返信削除いつもコメントありがとうございます!
恨み辛みだけで生きるのはいろいろシャクですからね。
どんなときでも楽しむ心を忘れないようにしたいものです。