アルキメデス、コペルニクス、ガリレイ、ファラデー、ニュートンなど、人類の歴史には偉大な科学者がたくさんいます。でも実は、科学という概念が成立したのは、20世紀に入ってからなのです。
古代ギリシアの頃から17世紀頃まで、いわゆる科学的な研究は、すべて哲学の範疇とされてきました。およそ知的な営みは、すべてフィロソフィア、つまり哲学ないし芸術であったのです。
やがて17世紀頃から、より精密性を増した実験手法が用いられるようになり、18~19世紀頃になると、やっと現代の意味での「科学」という言葉が使われ始めました。でも、何が科学で何が科学でないか、という線引きは曖昧なままでした。
そして1934年、カール・ポパーという哲学者が『科学的発見の論理』という書を発表します。この本が、科学と非科学の違いを明確にしたのです。人類史から見れば、ついこないだの出来事です。
この書で、ポパーが提唱したのは「反証可能性」です。
これはWikiによると「検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味する」とされています。また平易な意味では「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」(科学が覆されるのは科学のみ)と説明される、とあります。
つまり、すべての科学的理論は仮説であり、常に、将来的に反証される可能性を持つ、ということです。
実際、長らく科学の基礎となってきたニュートンの万有引力はアインシュタインの相対性理論によって覆され、さらに現在では、量子力学の登場によって統一場理論が予想されています。このように、次々と仮説が塗り替えられているのです。
* * *
この反証可能性が、万能ということではありません。現在も「科学の定義」に関して、さまざまな議論が交わされているようです。でも私は、この科学史に残るテーゼは、我々にとって非常に有用であると思っています。この「反証可能性」に対する態度を見れば、本物の科学者と偽物の科学者を見極めることができるからです。
原発事故が起こった世界では、この反証可能性を前提にして、識者と呼ばれる人たちの発言を見なくてはいけないのです。
そうやって世の中を見回してみると、いかに科学的でない識者の多いことか! ということが分かります。
原発事故が起こった世界では、この反証可能性を前提にして、識者と呼ばれる人たちの発言を見なくてはいけないのです。
そうやって世の中を見回してみると、いかに科学的でない識者の多いことか! ということが分かります。
別に例を挙げたくもないのですが、どこかの似非科学者が「ニコニコしていれば放射能の影響は出ない」とか言ってましたよね? 原発事故以来、こんな感じのオカルティックな自称科学者がぞろぞろと出てきました。
オカルト的な発言だけが非科学的ということでもありません。データが出揃っていないなかで「断言」すること自体が、典型的な非科学態度です。科学理論が仮説であるという基礎を忘れ、科学的慎重さのカケラもないような発言がそこかしこに見られます。
オカルト的な発言だけが非科学的ということでもありません。データが出揃っていないなかで「断言」すること自体が、典型的な非科学態度です。科学理論が仮説であるという基礎を忘れ、科学的慎重さのカケラもないような発言がそこかしこに見られます。
私がたびたび武田教授の言を取り上げているのは、武田氏が「科学」を意識した姿勢でいるからです。武田教授のブログを読んでみて下さい。必ず、考えの基となった前提を挙げて、結論を述べています。また「推論である」ことや「便宜的に考えた上で」などの注記事項も必ず付け加えられています。
大きな展開をするべき時・・・10人の子供と科学的な考え方
http://takedanet.com/2011/10/10_c462.html
(一部引用)
「何ミリまで大丈夫だ」というのは現在の状態で科学が言うことではありません.科学は「判らないときには判らないという」ということです。また科学技術が原因して被害を出しそうな時には、それを極力、小さくするのに努力しなければなりません。政府は現実を見て科学者や医師に反することをするかも知れませんが、それを予想して科学者や医師事態が被害を増大させるのは科学ではありません。
児玉教授も同様です。児玉氏は、この動画でヨウ素131と甲状腺ガンの因果関係を統計学的に証明することの困難を説いています(動画9:30あたりから)。
こうした言葉がなぜ心を打つのか。そこに科学への誠実さがあるからです。
大きな展開をするべき時・・・10人の子供と科学的な考え方
http://takedanet.com/2011/10/10_c462.html
(一部引用)
「何ミリまで大丈夫だ」というのは現在の状態で科学が言うことではありません.科学は「判らないときには判らないという」ということです。また科学技術が原因して被害を出しそうな時には、それを極力、小さくするのに努力しなければなりません。政府は現実を見て科学者や医師に反することをするかも知れませんが、それを予想して科学者や医師事態が被害を増大させるのは科学ではありません。
児玉教授も同様です。児玉氏は、この動画でヨウ素131と甲状腺ガンの因果関係を統計学的に証明することの困難を説いています(動画9:30あたりから)。
こうした言葉がなぜ心を打つのか。そこに科学への誠実さがあるからです。
といっても、彼らが言っている細かな数値や地域についてなどは、やはり検証される必要があると思いますし、また彼らの語ることすべてが正しいとも思っていません。ですが、少なくとも、彼らの言葉は耳を傾ける価値があると思っています。
予測や計算は誰だって間違えることがあるでしょう。でも、言葉や行動には科学への誠実さが正直に現れるのです。
予測や計算は誰だって間違えることがあるでしょう。でも、言葉や行動には科学への誠実さが正直に現れるのです。
「誰が科学者で誰が科学者でないか」
どのデータが正しいのかを考える前に、これを見るべきなのです。
* * *
誤解無きよう書きますが、私は、科学至上主義者ではありません。科学的に解明できないことは、世の中にたくさんあると思っていますし、東洋的な思想にも多分に共感するところがあり、むしろ、科学よりもそっちの方に興味があります。
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