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2012年12月15日土曜日

現代の奴隷制度

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あなたは気がつかないうちに、衆愚政策で奴隷にされている
http://www.bllackz.com/2012/12/blog-post_13.html#more

*  *  *

奴隷は自分が奴隷だと気付かないのだ、と。

2012年4月20日金曜日

あーイライラする

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なんでしょうね。

普段は、正常さを保つために、無意識に怒りを抑えて生活している。
で、何かをきっかけに突然、すごい腹が立ってくる。
このイライラループはいつまで続くのか。

*   *   *

セシウム濃度、最大2割高く修正 2012年 04月 16日
http://jp.reuters.com/article/jp_quake/idJP2012041601002573

(引用)
文部科学省は16日、昨年3月から8月にかけて公表した東京電力福島第1原発周辺の海水や海底の土に含まれる放射性セシウム濃度の一部データについて、実際よりも数%から最大で20%程度低く算出していたとして、修正した数値を公表した。修正したのはセシウム134の濃度。セシウム134は同時に複数の放射線を出すため、その影響を考慮して算出する必要があるが、分析に時間がかかるため当時は考慮していなかった。▽ロイター 

*   *   *

こんな偽装、犯罪は何十回目?
毎回、低く見積もってるくせに、うっかりミス?
どれだけ嘘を重ねても、責任を取る人間は一人もいない。

こんな修正データの数字もアテにならない。
ホントの数字が出てくるのは数年、数十年後でしょう。

何が腹立つって、これだけ情報が出てるのに、
まだ政府、官僚の言うことを信じてる人に腹が立つのです。

*   *   *

とある知的な笑いをウリにしている芸人が、原発は推進、放射能は安全とテレビで発言していて、どうも、その理由が「今まで原発に反対してこなかったから、今さら転向するのは主義に反する」というものらしい、というエピソードをどこかで読みました。

もしそのクソみたいな主義が事実であるなら、そんな、くだらない「こだわり」や「かたくなさ」こそ、私の最も嫌うところなのです。結構多いよそんな人。

人は年を取るにつれて、脳みそが固まっていきます。これを防ぐのは極めて難しい。だから、我々にできることは「自分の脳みそが固まっていく」ことを自覚することだけである、と思っています。

2011年10月9日日曜日

科学者と似非科学者を見極める

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知ってる人も多いと思いますが、ちょっと科学の歴史について。

アルキメデス、コペルニクス、ガリレイ、ファラデー、ニュートンなど、人類の歴史には偉大な科学者がたくさんいます。でも実は、科学という概念が成立したのは、20世紀に入ってからなのです。

古代ギリシアの頃から17世紀頃まで、いわゆる科学的な研究は、すべて哲学の範疇とされてきました。およそ知的な営みは、すべてフィロソフィア、つまり哲学ないし芸術であったのです。

やがて17世紀頃から、より精密性を増した実験手法が用いられるようになり、18~19世紀頃になると、やっと現代の意味での「科学」という言葉が使われ始めました。でも、何が科学で何が科学でないか、という線引きは曖昧なままでした。

そして1934年、カール・ポパーという哲学者が『科学的発見の論理』という書を発表します。この本が、科学と非科学の違いを明確にしたのです。人類史から見れば、ついこないだの出来事です。

この書で、ポパーが提唱したのは「反証可能性」です。

これはWikiによると「検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味する」とされています。また平易な意味では「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」(科学が覆されるのは科学のみ)と説明される、とあります。

つまり、すべての科学的理論は仮説であり、常に、将来的に反証される可能性を持つ、ということです。

実際、長らく科学の基礎となってきたニュートンの万有引力はアインシュタインの相対性理論によって覆され、さらに現在では、量子力学の登場によって統一場理論が予想されています。このように、次々と仮説が塗り替えられているのです。

*   *   *

この反証可能性が、万能ということではありません。現在も「科学の定義」に関して、さまざまな議論が交わされているようです。でも私は、この科学史に残るテーゼは、我々にとって非常に有用であると思っています。この「反証可能性」に対する態度を見れば、本物の科学者と偽物の科学者を見極めることができるからです。

原発事故が起こった世界では、この反証可能性を前提にして、識者と呼ばれる人たちの発言を見なくてはいけないのです。

そうやって世の中を見回してみると、いかに科学的でない識者の多いことか! ということが分かります。

別に例を挙げたくもないのですが、どこかの似非科学者が「ニコニコしていれば放射能の影響は出ない」とか言ってましたよね? 原発事故以来、こんな感じのオカルティックな自称科学者がぞろぞろと出てきました。

オカルト的な発言だけが非科学的ということでもありません。データが出揃っていないなかで「断言」すること自体が、典型的な非科学態度です。科学理論が仮説であるという基礎を忘れ、科学的慎重さのカケラもないような発言がそこかしこに見られます。

私がたびたび武田教授の言を取り上げているのは、武田氏が「科学」を意識した姿勢でいるからです。武田教授のブログを読んでみて下さい。必ず、考えの基となった前提を挙げて、結論を述べています。また「推論である」ことや「便宜的に考えた上で」などの注記事項も必ず付け加えられています。

大きな展開をするべき時・・・10人の子供と科学的な考え方
http://takedanet.com/2011/10/10_c462.html

(一部引用)
「何ミリまで大丈夫だ」というのは現在の状態で科学が言うことではありません.科学は「判らないときには判らないという」ということです。また科学技術が原因して被害を出しそうな時には、それを極力、小さくするのに努力しなければなりません。政府は現実を見て科学者や医師に反することをするかも知れませんが、それを予想して科学者や医師事態が被害を増大させるのは科学ではありません。

児玉教授も同様です。児玉氏は、この動画でヨウ素131と甲状腺ガンの因果関係を統計学的に証明することの困難を説いています(動画9:30あたりから)。

こうした言葉がなぜ心を打つのか。そこに科学への誠実さがあるからです。

といっても、彼らが言っている細かな数値や地域についてなどは、やはり検証される必要があると思いますし、また彼らの語ることすべてが正しいとも思っていません。ですが、少なくとも、彼らの言葉は耳を傾ける価値があると思っています。

予測や計算は誰だって間違えることがあるでしょう。でも、言葉や行動には科学への誠実さが正直に現れるのです。

「誰が科学者で誰が科学者でないか」
どのデータが正しいのかを考える前に、これを見るべきなのです。

*   *   *

誤解無きよう書きますが、私は、科学至上主義者ではありません。科学的に解明できないことは、世の中にたくさんあると思っていますし、東洋的な思想にも多分に共感するところがあり、むしろ、科学よりもそっちの方に興味があります。

2011年9月21日水曜日

怒りと怨みの違い。「ジョーク」について。

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この写真は先日、9月11日に行われた反原発デモのヒトコマですが、写真中央にある「怨」の文字を見て、引っかかるものを覚えました。

電力利権が国民を騙し続けてきたこと、原発の危険性が隠されていたこと、今も国民すべてに放射能が降りかかっていること。などを考えると、人々が怒るのは当然のことです。私も怒っています。

*   *   *

怒りは人間にとって健康的な感情です。怒りは自己を形成するために必要なもので、他の動物には見られない人間固有の表現活動にも繋がります。

でも、この怒りを正しく表現できなければ、その感情は心の中で腐敗・熟成していき、やがて「恨み・怨み」へと性質が変わります。これはあまり健康的な感情とは言えません。

心が恨み・怨み(ルサンチマン)で占められると、他者の否定とともに自己否定のループに陥ってしまい、極めて不安定な心理状態となります。こうなると、判断力は鈍り、論理性が失われます。そして世界への憎しみが、自己の中心に位置づけられてしまいます。

*   *   *

なにより致命的なのは、自己のなかに「恨み・怨み」を抱えてしまうと、ヒューモア(ジョーク)が失われるということです。これは人の在り方を変えてしまう事態です。

私は「ヒューモア(ジョーク)は、論理性の象徴である」と考えています。論理性を持たない者はうまくジョークを言えないし、他人のジョークを理解できない。論理性のない人は、客観的な視点を持たず、生きる意欲を失ったり、暴力的になったりします。そして、他者への想像力も働かなくなります。

ちなみに、ここで言うジョークとは、いわゆる冗談といった一般的な意味合いとは別に、哲学的な概念も含んでいます。震災とはまったく無関係に、私は長らく、この「ジョーク」という概念を考え続けてきました。なのでその意味合いは、自分では分かっているつもりなのですが、人に説明しようとするとなかなか難しい。

ムリヤリ言葉にしてみると「『言葉』の不完全さを自覚しながら発せられる言葉や行為」、あるいは「『言葉』の持つ曖昧さ、不完全さを自覚した“フリ”をすること」といった感じになります。やっぱり難しい。

この「ジョーク」は言語哲学、実存哲学、プラグマティズム的考えに基づく概念です。「ジョーク」が成り立つために、必ずしも笑いが必要というわけではありません。

でもまあとにかく、面白いジョークを飛ばすためには、周囲の環境、自分の精神状態を客観的に観察できていることが必要である、と。それにプラスして、言葉の不完全さに対する自覚もあれば、ということです。

この「ジョーク」の分かりやすい例として「フランス兵の命を救った架空の少女」が挙げられます。

*   *   *

第二次大戦中に、ドイツ軍の捕虜となったフランス兵たちが、満足な食料も与えられず、衛生状態も悪いなかで、厳しい状況にさらされていました。

皆が生きる希望を失いかけたとき、フランス兵のリーダーが、皆が囚われている部屋の片隅に1脚の椅子を置き「この椅子に座る架空の13歳の少女を想像しよう」と全員に告げました。

全員がそれぞれに少女を思い描き、その存在を感じました。フランス兵たちは、毎日少女に話しかけ、冗談を言い、また少女に失礼の無いように振る舞いました。なかには、餓死しそうなほどの量しかない食べ物の一部を、少女のためにとっておく者もいました。

やがて戦争が終わり、捕虜が解放されたとき、このフランス兵の一団は、皆が精神の均衡を保ち、全員が無事生還できたのです。

*   *   *

ここでのジョークは「架空の少女を全員で真剣に思い描いたこと」です。ジョークは真剣であればあるほど、面白く、効果的となります。

この話は実話として伝えられていることが多いのですが、実際はフランス人小説家のロマン・ガリー(ロオマン・ギャリイ)が書いた「自由の大地(原題『天国の根』)」という物語のようです。実話か完全なフィクションかどうかは不明ですが、「ジョーク」の在り方を見事に表していると思います。(このエントリを書いたあとで、古本で「自由の大地」を購入しました。まだ全部は読んでいないのですが、かなり長い長編小説で、そのなかの短い挿話として「フランス兵の命を救った架空の少女」が描かれていました。内容は、私の又聞き、うろ覚えの話と似て似つかぬものだったのですが、このエントリ内の話はそのままにしておきました。追記も参照のこと)

私は、シリアスな事態であればあるほど、ヒューモアは重要さを増す、と考えています。極限の状況下では、ジョークが自分の身を守る術になり、命を救うこともあるのです。

*   *   *

怒りの感情が恨み・怨みに変わると、論理性が失われ、論理性が失われると、ヒューモアが失われます。そしてヒューモアが無くなると、ジョークが言えない・理解できない人間になってしまいます。

そんな人間は、すごく面倒で、あまり近づきたくない存在です。ただでさえ狭い人間の視野がさらに狭まり、ただ憎しみだけを周囲にぶつける。こうした「怨み」の感情は、殺人や紛争・戦争の原因に繋がるのではないかと思います。

政府、東電、保安院、原子力安全委員会、大手マスコミ、原発を推進してきた自民党、利権をむさぼる御用学者……etc。これらの存在に対して、私も人生最大といっていいほどの怒りを感じています。でも、その怒りを自分のなかで「怨」に変えてはいけないのです。

*   *   *

いまいち分かりにくいエントリですね。ちなみに、私は自分が死ぬときにどんなジョークが言えるか、ということを楽しみに生きています。

*   *   *

追記:2011/09/25 5:26

この本の覚え書きにフィクションとありましたので実話ではありません。そして、内容も私の知っているものとはかなり違っていました。架空の女性を作り出したことは一致していますが、13歳とは書かれておらず、また食べ物をとっておく話や、生還したという話もありませんでした。したがって、私の書いた話は、ロオマン・ギャリイ氏の書いたものとは異なるもので、伝聞によるお話です。エントリの内容を考えて、訂正せず、そのままにしています)

2011年9月6日火曜日

良心を利用するプロパガンダのからくり

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本題の前にちょっと意見を。
まあ何度も言ってることなんですが。

武田教授、児玉教授をはじめ、多くの人が汚染地の除染をするべきだと言っています。私も除染は必要だと思います。ですが、それは人を移動させた後にするべきだと思うのです。児玉教授は「どんなに除染しても0.5μSv/h以下にすることは難しい」と言っていました。私は0.5μSv/hの土地で子供を育てようとは思いません。

人の移動が必要な地域を決定するのは難しいと思います。私個人的には0.6μSv/hが目安になると考えています。従来の法律上の放射線管理区域に当たるからです。人の移動は国が率先してやるべきですが、それを待っていては、子供たちから病気になっていくでしょう。

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興味深い記事がありました。

以下には、有事の際に国民を洗脳するためのプロパガンダの手法が書かれています。ちょっと長いですが、転載歓迎とあるので、引用させてもらいます。赤文字の色は私が付けました。

今何がおきているのか―流布される「不幸の均霑(きんてん)」プロパガンダ
https://sites.google.com/site/livingwithfukushima/literature/critics/yoshida

■なぜ騙されるのか、怒らずに従うのか

当初から噂されそのように語られてきたことではあるが、東京電力の計画停電がやらせであったことを東京新聞など地方紙が2011年5月12日朝刊で一斉に伝えた。

「狙いは原発存続?よぎる計画停電」(『北陸中日新聞』2011年5月12日:朝刊)
これを読んで騙されたと怒る声があるが、それではなぜ多くの人は計画停電のさなかにはいとも容易く騙され、デモを起こしたり抗議の声を上げたりすることもなく、不平を言いながら、あるいは「被災者の苦労を思えばこれくらいの不便は」「被災地の復興につながるのなら」と進んで計画停電を受け入れたのか。

上の記事中に「福島第一原発事故後の世論調査でも『原発の廃止.減らす』よりも『増設.現状維持』との回答が多かったのは、国民や産業界が計画停電で不便を被ったことが一因とみられている。」とあるように、なぜ多くの人は計画停電を受忍して従うことによりこのようなマインド・コントロールをいとも簡単に受けてしまったのか。

また、福島で避難しようとする住民に「逃げるな」との罵りが家族や周囲の人間からなぜ発せられるのか。福島産の牛乳、農産物、肉、卵などを給食で食べさせる学校に対し、弁当や水筒を持たせようとする親の配慮を多くの学校教師が特例は認められないとして断固として禁じるのはなぜなのか、またそう言われた親たちの多くが戦うことができず泣き寝入りしてしまうのはなぜなのか。

産経新聞が報じるところが本当ならば、福島第一原発の立地となった地域の住民が東京電力に謝罪や補償を求めることに対し、県の他地域の住民たちの間に怒りをもって批判する声があるのはどういうことか(脚注記事)。

事故以来、このようなおかしなことが起き続け、多くの人々がそれを根本的に批判・糾弾できないまま、嫌々ながらあるいは進んで受け入れて日々を過ごしている。一体今何が起きているのか。

■支配の常套手段:「不幸の均霑(きんてん)」プロパガンダ

このことの答えを求めて思いを巡らしていたとき、ある文章に出会い、そこに問題を解く鍵が書かれているのを発見した。以下に紹介する書評がそれである。

権力が民衆を支配するとき権力への怒りの矛先を民衆同士に向かわせ、民衆同士を分断し反目させることが常套手段であることは重々承知していた。しかし、ここではそのことについてさらに掘り下げて、その支配を可能にする手法とそれを一旦受け入れた民衆の思考・行動について短い文章でありながらはっきりと説明してくれている。

お読みいただきたい。

どくしょ室

『戦争と日本人―テロリズムの子どもたちへ』
加藤陽子 佐高信著 角川学芸出版
近現代史に探る戦争への道

「テロリズムの子どもたちへ」という本書の副題について、著者の一人である加藤陽子はこう述べている。「現実に対する義憤や短慮によって、未熟なものたち―子どもが早まって事を起こし、その結果、本来は歴史が必要とした『大人』の死体が累々と横たわる風景があまりに多かった」

本書は「そのような『子ども』を生み出さない、産み落とさない社会を祈念して書かれた」という。逆に言えば、今の日本の状況が戦争前夜であったテロの時代に似てきたということであろう。

近代日本の歴史を振り返れば、暗殺された政治家にはある共通点がある。外交においては国際協調、内政においては議会重視を唱えた面々が実に多いのだ。排外主義に燃える目からすれば、国際協調や議会重視の姿勢は妥協や屈服と映りやすい。最近の例でいえば、尖閣諸島での中国漁船衝突事件をめぐる世論の反応がまさにそうだった。

こうした排外主義的ナショナリズムを自然発生的なものとみてはいけない。著者が言うように、「『子ども』たちが、権力者の思惑にかなり仕組まれた形の報道を受け、そこに乗っかってテロリストになっていく」構図を見抜く必要がある。

徴兵制研究の著作がある加藤は、「不幸の均霑(きんてん)」というキーワードを使い、近代日本国家が戦争遂行に合意を得ていったプロセスを説明している。わかりやすくいうと、「不幸を公平に分かち合う」と装うことで、国民の不満を吸収する手法だ。

たとえば、徴兵制の歴史は免役条項を外していった、ある意味「公平の歩み」であった、と加藤は言う。もちろん政府の狙いは兵力の拡大にあるのだが、本当のことを言うと国民の支持は得にくい。そこで政府は「特別扱いをなくし平等にする」というレトリックを全面に出した。そうすることで「何であいつらだけ兵役免除なんだ。ずるい」という大衆感情を巧妙に取り込んでいったのである。

このような手口は、現在猛威をふるっている既得権攻撃(公務員叩き、農家叩き、「在日」叩き等々)とまったく同じものだ。人々を分断し争わせるのは、国家が権利のはく奪を行おうとするする際の常とう手段であることを、私たちは歴史から学ぶ必要がある。

「国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らない」。加藤のこの指摘はすでに現実のものとなっている。

だからこそ、対談者の佐高信が力説するように“メディアの熱狂に踊らされず、自分の頭でじっくり考える資質″が求められている。本書からは、現在につなげて歴史をみる視点と発想を学びたい。  (I)

『週刊MDS』2011年5月20日第1182号
MDS新聞社発行

この本『戦争と日本人―テロリズムの子どもたちへ』は東京電力福島第一原子力発電所事故以前に書かれたものだが、事故後起きていることがらを何と正確に解き明かしていることだろうか。

権力が民衆に苦痛を受容させるとき正面からそれを要求したのでは反発を買い成功しない。そこで、非常有事に権力は「不幸の均霑(きんてん)=不幸を公平に分かち合うこと」というレトリックを使ったプロパガンダを流す。その途端に不思議なように民衆はそれを受け入れ、苦痛を強いる権力に対してではなくその苦痛を少しでも免れようとする同胞に怒りを向けるようになる。太平洋戦争末期に「欲シガリマセン勝ツマデハ」「一億火ノ玉」「一億玉砕」などのスローガンが流布され、それに異を唱える者たちは「非国民」との罵りと排斥を受けたのが分かりやすい例だ。

■大手を振ってまかり通る「不幸の均霑」プロパガンダ

放射線量が高い地域の農産品、畜産品、水産品を買わないようにする当然の消費行動を、国や福島県他の自治体や福島JA五連などは「風評被害」と呼び、マスメディアもその語を垂れ流して、被害者の怒りを見当違いの方向に向けて煽り、一方消費者たちに理不尽な罪責感、加害者意識を植え付けている。正に「不幸の均霑」プロパガンダそのものである。

このレトリックがどれほどの力を持っているかを垣間見ることができる記録がある。

「2011年3月21日14時-山下俊一氏・高村昇氏『放射線と私たちの健康との関係』講演会(後半)」がそれだ。

政府、福島県の説明に納得できず福島県放射線健康リスク管理アドバイザー山下俊一を問い詰めていたはずのフロアの質問者が、山下のレトリックに赤子の手をひねるようにしてやられる瞬間が記録されている。以下の部分だ。

山下:(略)じゃあ、今ここで汚染されたミルクを飲みなさいと言って、みんな飲むでしょうか。飲まないですよね。福島県民だけにそういう辛い思いをさせるということは許されません。日本国民が全部がこれは分かち合うべきだと思います。だからこそ、風評被害を減らすために私達はここに来ています。枝野官房長官には今日連絡しましょう。ここに来て食えと。まさにそういうことですよね。

Q3:一番最初に食べてほしいし、飲んでほしい。

山下:はい、そう伝えますので。ありがとうございます。

福島県民だけが辛い思いをすることは許されない、日本国民全員が汚染されたミルクを飲むべきである、枝野氏はその筆頭になるべきであるとの魔法のことばを聴いた途端、誰が加害者であり責任を取るべきかの判断が曇り、不安と怒りが福島以外に住む市民と枝野氏に向けられることになる(目の前にいる山下こそが恐ろしい敵の使者であるのに!)。驚くほど短いことばで成功した見事な洗脳の手口だ。
山下が福島県に呼ばれたのは彼が放射線影響研究所、ICRP、IAEAの代弁者だからというだけでなく、このような悪魔的な話術を持つ人物だからという理由からでもあるのではないか。

■私たちには免疫があるわけではない

見てきたようなプロパガンダが機銃掃射のようにメディアを通し、また日常会話の中で繰り返される日々を私たちは今生きている。情報・知識を蓄えればこのような思想宣伝に対抗できると考える向きもあるかもしれないがそれは楽観的にはすぎまいか。

太平洋戦争中、ヒューマニスト、社会主義者、キリスト者など十分の知識を得ていたはずの知識人たちが次々と転向し大政翼賛会になびいていったのは何も治安維持法による弾圧の恐怖のゆえからだけではあるまい。悲惨を極める前線の戦況を聞けば聞くほど、批判的な発言をしてはならないと良心の怯えを覚え、思想と言論の自由が脅かされても多少のことは我慢しなければならないと自らを規制して体制への隷属を受け入れたのではなかったのか。

「不幸の均霑」プロパガンダは感情に訴え知性を麻痺させる点において実に恐ろしい。私たちには免疫があるわけではない。目覚め続けなければ私たちはいとも容易くその魔の手に落ちてしまう。

ひとつの例を取れば、放射性物質が降下した被災地のがれきを被災地以外の都道府県が受け入れなければ被災地は復興できない、放射能被害をこれ以上被災地にだけ押し付けて涼しい顔をする気かと恫喝されたときに、被災地以外の住民たちは心の責めを感じずに抵抗できるだろうか。また、一旦「NO」と言った後にがれき処理ができないゆえに悲惨な状態のまま捨て置かれ続ける被災地の姿が延々と伝えられるようになり、被災者の怒りの声が伝えられるようになってもなお私たちのひ弱な良心は持ちこたえられるだろうか。

「がんばろう日本」との情緒的なスローガンは、裏を返せば地震、津波、原発事故による被害に関しては「一億総懺悔」をしてその不幸を民衆全員で負うべきであるというプロパガンダだ。

反原発行動の中で「私たち東京の人間のために電気を作っていた福島の原発であんなことがあって申し訳ない」「今まで無関心ですみません」というようなことばが聞かれる。事故の悲惨そして降り注ぐ放射性物質の嵐を見て誰が心の責めを感じずにいられよう。しかし、そのような良心的な思いから来る罪責感にも「不幸の均霑」プロパガンダが付け入る隙を狙っていることを押さえておこう。

反原発・脱原発の素朴な思いを結集していくなら社会は大きく変わると言う人もいる。しかし、目を覚まして自らの知性と感性を武装しなければ落とし穴はすぐそこに待っている。問題の構造に対する理解を曖昧にすまい。加害者と被害者の区別をはっきりとさせ、責任を負うべき者にそれを負わせよう。そのためにこそ、被災者、原発事故被害者たちと連帯しよう。

注:

「対立生む“原発の恩恵”遠方住民『手厚い補償 被害者ぶるな』」(『産経新聞』2011年5月18日朝刊)

工程表は示されたが、原発周辺の住民にとっては、不自由な生活にはっきりとした出口が見えたわけではなく、抱えるストレスは大きい。福島県内では、原発立地で経済的な恩恵を受けてきた、受けなかったといった認識の違いが、感情的対立すら生じさせている。(小野田雄一)

■土下座に違和感

「避難所で東電の社長に土下座させた人たちは、これまで東電に食べさせてもらってきた人たち。地元に原発を誘致した経緯もある。土下座の強要には違和感を覚える」

原発から約60キロ離れた福島市内で飲食店を経営する男性(40)はそう話す。震災と原発事故で、売り上げは昨年の3分の1程度に落ちたという。

「原発で恩恵を感じたことは一度もないのに、損害を受けている。原発近くの人は手厚く補償されるだろうが、うちがつぶれても補償されるのか。理不尽だ」

原発から離れた地域の少なからぬ住民には、こうした思いは共通する。

■累計2700億円

原子力や火力発電所などが立地している地域は、国から「電源立地地域対策交付金」など、さまざまな交付金を受けられる。

交付金は周辺自治体に直接交付されるものもあるが、広く県全体に渡るものもある。福島県によると、各種交付金の平成21年度の総額は計約145億円。

このうち、県に交付された「電力移出県等交付金」は計62億円で、県は約52億円を公共事業に投じた。残る10億円は県内の大半の自治体に分配した。県が昭和49〜平成21年度までに受けた交付金の総額は、約2700億円になるという。

県には電力会社から「核燃料税」も入る。原子炉に挿入された核燃料の価格と重量に課税されるもので、15〜18年度では計約103億円。多くが県内の道路や橋、河川などの整備費のほか、福島空港の管理費、県立病院などの運営費、警察費など、県民全体のサービス向上に充てられた。

だが、「原発が県にどんな恩恵をもたらしてきたかを知っている県民は少ない」(県幹部)というのが現実だ。

■しっかり周知を

原発の住所地でもあり、現在は町役場ごと会津若松市に避難中の大熊町役場には、「原発で恩恵を得てきたのに、事故でほかの地域に迷惑をかけ、今さら被害者ぶるな」といった批判の声が届いているという。

町幹部は「雇用や、町から住民への教育費や医療費の補助など、確かに他地域より恩恵はあった」と認めつつ、「恩恵が県全体にも及んでいることを知らない人も多い」と戸惑いを隠せない。

ある県幹部は「原発の恩恵がリスクと釣り合ってきたのは、“安全”という前提があったからこそ。これまでの経済的恩恵とは桁違いの損害が出ている」と話し、立地地域も被害者だと強調する。その上で、「県民対立や国民からの批判を防ぐためにも、濃淡はあるにせよ原発の経済的恩恵が、特定の地域だけのものでなかったという事実をしっかり伝えていきたい」と話している。

2011年9月1日木曜日

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

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ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、
共産主義者でなかったから何もしなかった。

ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、
社会主義者ではなかったから何もしなかった。

ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。

ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した。
───しかし、それは遅すぎた。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
───マルティン・ニーメラー

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ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーの詩です。

自分と関係の無い人々の苦しみは、なかなか共感できないものです。でも、それを見過ごしていると、回り回って自分の元にやってくるという教訓を含んでいます。

これは多分に、想像力と無関心、そして正常性バイアスと同調圧力の問題です。

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ユダヤ人狩りが始まる直前に難を逃れた人もいます。

皮肉なことに、核分裂のアイデアを歴史上初めて考え出した物理学者のレオ・シラードもその一人です。

ナチスが台頭してきた当時ドイツにいた彼は、ナチスの危険を友人たちに説いてまわり逃げるようにすすめたが、誰も相手にしなかった。しかたなく、シラードは一人でウィーン行きの汽車に乗った。その翌日からユダヤ人への粛清が始まった。

ダイアローグ研究会講義録「レオ・シラードの思想と生涯」田口ランディから引用)

2011年8月25日木曜日

倦怠のうちに死を夢む

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ここのところ仕事が忙しく、また、ブログに書くことがあまり思いつかない。
東京にいて、すごく眠たい。私は子供の頃からロングスリーパーなのです。
なんとなく「倦怠のうちに死を夢む」な気分です。

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「汚れつちまつた悲しみに」
中原中也

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところなく日は暮れる

2011年8月17日水曜日

世界の変化はまず自分から

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あなたが望む世界の変化に、あなた自身がなりなさい。
Be the change you want to see in the world.

───マハトマ・ガンジー

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社会を見るときにはミクロとマクロの視点がありますが、ひとりひとりが変わらなければ社会全体は変わりません。社会に文句を付ける前に、まず自分自身を見直すこと。自戒の念を込めて。

2011年8月13日土曜日

大震災の後で投資について考えるということ

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メディアがわあわあ騒いでいる円高について、橘玲氏がクリティカルな意見を提示しています。

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円高と株安についての個人的感想
http://www.tachibana-akira.com/2011/08/3016

(一部引用)

名目レート(青線)では円はたしかに戦後最高値になっていますが、インフレ率を勘案した実質レート(赤線)では7月末で101.46でしかありません。これは、「超円高」と騒がれた95年4月(実質レート151.11/1ドル=83.77円)はもちろん、99年末(実質レート131.37/1ドル=102.08円)や88年11月(実質レート124.17/1ドル=121.85円)よりもはるかに“円安”であることがわかります。

インフレ率(物価のちがい)を勘案した実質レートでは、現在は円高でもなんでもなく、今後、さらに20~30%円高になってもなんの不思議もありません。

このように、デフレと低金利がつづくかぎり、名目為替レートが円高になるのは避けられません。日本はG7などで「異常な円高」の協調介入を求めていますが、各国はもちろん、実質為替レートで見れば円高など存在しないことを知っているので、相手にされないのも当たり前です。名目為替レートを円安にするには、金利を上げるか、インフレにするかしかないのです(日銀がいくら市場介入してもなんの効果もありませんI)。

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詳しくは、橘氏の新刊「大震災の後で人生について語るということ」に書かれているとのこと。まだ読んでいないのでなんとも言えませんが、おそらく今後の生活に役立つ経済的なヒントがたくさん書かれていると思います。

『大震災の後で人生について語るということ』はじめに

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私は少額ながら、6年ほど株式投資を続けてきて、世の中に対してシビアな視点を磨くことができました。実質的なリターンはたいして得ていませんが、こうした見方を身に着けられたことが一番のメリットだったと思っています。

日本人は、カネに対しての考えがあまりに稚拙だと思います。投資という言葉に対する嫌悪を持っている人も少なくありません。カネを稼ぐなら、額に汗して働くのが本当だ、と。その考えも分かりますが、投資というのは決して、競馬やパチンコなどのギャンブルと同じではありません。確かに、高レバレッジをかけたFXなどはギャンブルと同じと言われても仕方ないものですが、投資行動というのはもっと多岐に渡っています。

銀行に預金することも、住宅を購入することも、また正社員、非正規社員問わず、労働することも一種の投資行動として見ることができます。投資は、およそ社会活動をする上で切り離せないものなのです。

昨年9月には、日本振興銀行が破綻して、日本初のペイオフが発動されました。経営悪化の深刻さは報道されていたにも関わらず、数千人の人がこの破綻で預金カットされたということです。彼らは銀行に預けておけば安心と信じ切っていたのです。さらに、銀行預金には、そうした破綻リスクだけでなく、実質価値の変動リスクもあります。金利や為替、インフレ、デフレによって、銀行に預けたお金の価値は、日々流動しているのです。

住宅を購入することは不動産投資に当たります。私は、投資行動として捉えていないのなら、住宅は購入すべきでない、と考えています。特にローンでの購入は高いリスクをともないます。これは、おそらく(住宅関連業者を除いて)投資行動をしているすべての人の意見だと思います。今回の震災は、不動産投資が持つリスクをまざまざと見せつけられました。

また、今までは、安定して高配当が得られる株の代表格として、電力株が知られていました。投資についてロクに勉強もせず、電力株に退職金や年金をつぎ込んでいた老人は多数いました。安心だという説明を信じていたからです。その東電株は現在、震災前の1/5の価格になっています。

投資行動には常にリスクがつきまといます。それは、人生にはリスクがつきまとう、ということと同義なのです。そして投資を意識するということは、自分の行動がもたらすリスクに対して責任を持つことなのです。

日本人はお金について、もっとちゃんと考えるべきです。アメリカの小学校では、授業で株式投資を学びます。また、少額の資金を与えて、実際にトレードをさせる親もいます。これだけでも、私はアメリカの教育に価値があると考えています。はっきり言って、日本の公教育は害悪のみで、価値がありません。

これからの日本がどうなっていくのかは分かりません。でも、自分の身は自分で守るということが、よりシビアに求められるのは間違いないと思います。

2011年8月8日月曜日

ペリーの黒船が見えなかった人たち

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私は、人間の体はまったく出来が悪いと考えています。特に出来が悪いのは認識能力です。外界認識の多くを担っているのは視覚ですが、まず目が2つしか無いのが致命的。そのうえ一方向だけを向いている。

そもそも視覚というのは脳が認識しないと見えないものです。その一例として脳梗塞を起こした人に現れる「半側空間無視」という症状があります。右側か左側、どちらかの半側からのあらゆる刺激、視覚、聴覚、触覚などを認識できなくなる症候のことです。左側が見えなくなる状態というのは、荒木飛呂彦の漫画「スティール・ボール・ラン」にも出てきました。

眼球の機構はカメラと同様のもので、映し出される映像は脳によって処理されます。見るということは、脳が認識するということであって、物理的に「在る」こととは別の現象なのです。

で、こんな面白い話があります。

1520年、世界一周を目指すマゼランの大型船団が、南米最南端のフエゴ島に到着したときのこと。マゼランたちは、島の湾内に大型帆船4隻を停泊させて上陸しました。島民たちは驚きましたが、マゼランたちがどうやって島に来たのかが理解できませんでした。なぜなら、彼らの目には湾内に停泊していた4隻の大型帆船がまったく映らなかったからです。彼らの目には、大型帆船の向う側にある水平線が見えていたといいます。

フエゴ島の住民は、普段カヌーを使っていました。大型帆船というものの存在を知らなかったため、脳が認識できなかったのではないかと言われています。ドラえもんで云う「石ころ帽子」みたいな感じでしょうか。

マゼランと同様に、江戸時代後期にアメリカからペリーの黒船が浦賀沖にやってきたときも、多くの人には黒船が見えなかったという話もあります。あまりに大きく鉄でできた蒸気船は、船という概念で捉えられなかったのだということです。

こちらは時代が進んでいたこともあって、全員が見えなかったわけではありませんでした。海外の高度な技術や、時代の変化を感じていた人たち(勝海舟や吉田松陰など)は、その姿をはっきりと捉えていました。そして世間で騒がれるにつれ、だんだんと人々も認識していったのだと思います。

安部公房の「箱男」も同じような話です。こちらは小説ですが、箱に入った浮浪者が一般人の世界と相容れないもの、として描かれています。普通の人たちの目には映りません。

もしかしたら、今も空にはUFOがたくさん飛んでいるのかもしれません。それどころか、異様な風貌の宇宙人だか未来人が堂々と道ばたを歩いているのかも。我々が見えないだけで。ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』がそんな話でしたね。

目に映るものでさえ認識できない人間が、目に映らない放射能の恐ろしさを認識するのは、なかなか難しいことなのだと思います。

2011年8月6日土曜日

放射能、みんなで浴びれば恐くない

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いままでずっと、内部被曝は恐い、放射能は危険だ、ということを書いてきましたが、はっきり言って、それがどれくらい恐いものなのか、ということは私には分かりません。世界の専門家の間でも意見が分かれていることからも分かる通り、内部被曝についての実例が少なく、まだ正確な知見が得られていないのです。

だから、もしかしたら、福島を含めてひとつも健康被害が出ないかもしれない。
御用学者と呼ばれる人たちの言うことが正しいのかもしれない。
その可能性もゼロでは無い、と私はアタマの片隅で思っています。

ここで書いたように、今回、福島第一原発から放出された放射能は、偏西風のおかげで大半が太平洋に流されました。もし偏西風がもっと気まぐれに進路を変えていたら、この数倍、数十倍の広い範囲で汚染されていた可能性もあります。福島原発の位置も幸いしました。下記の動画を見れば、それがよく分かります。むしろ、汚染は最小限に食い止められた、と言っても過言ではありません。


では、何が問題なのかというと、武田教授も再三言っているように、従来の基準がすべて無視されていることにあります。自然放射線を除いて、日本国民が被曝して良いとされる限度は年間1mSvでした。また、年間5.2mSv以上の場所は放射線管理区域として立ち入りが制限されていました。これは毎時に直すと約0.6μSv/hです。そして、食品の基準値はWHOの基準に沿って、運用されていました。

これらの法に則った基準が、今回の災害以後、すべて無視されているのです。学校の運動場は3.8μSv/hまでとか、子供は年間20mSvまでOKとか、1年間にレントゲンを400回浴びても大丈夫だとか(それも医療的利益無しで)。では、今までの基準はいったい何だったのか。この犯罪行為になぜ従わなくてはいけないのか。

このことは、実際の被害がどれくらい出るのかということと、別に考えなくてはいけません。

基準を無視しただけでなく、国や自治体は、放射能に汚染されたガレキや肥料や汚泥を、全国にばらまくという、さらに意味の分からないことをしています。全国に汚染を散らして、全国民で放射能を分かち合おうとしているのです。ここまでキチガイじみた政策は、チェルノブイリ事故の旧ソ連政府も行っていません。

これは「1億火の玉」を掲げた太平洋戦争のときと同じ思想なのでしょうか。日本のムラ的な発想なのでしょうか。もはや私の理解力を超えているので、さっぱり意味が分かりません。

なにより私が一番恐いのは、こんなメチャクチャな行いを黙認している人たちです。戦後教育の成果なのか、自分の頭で考えることを放棄してしまった人たち。上の言うことを効率良く行うことだけを教え込まれた人たち。みずからが主権者であるという自覚もない人たちがこの国を作ってきたのです。

確かに、この教育によって、日本は発展を遂げました。社会が発展するために、3S政策、B層政策は、非常に効率良く機能したのです。そんな人たちは、仕事は出来るかもしれませんが、こと非常時にあっては、奴隷か家畜となってしまいます。

ツービートの「赤信号、みんなで渡れば恐くない」というのは日本人のメンタリティを的確に言い表しています。「放射能、みんなで浴びれば恐くない」ということです。みんながガンになったら、自分もガンにならないと落ち着かないのでしょうか。被曝することまで、ステータスやファッションとしてしか捉えられないのか。

地震や津波で死ぬことは、ある種どうしようもないことですが、原発災害の放射能で死ぬことは到底ガマンできません。利権にまみれた人たちのせいで、自分や家族の命が脅かされるのは、お断りします。

「しょうがない」という言葉を使って良いのは、できるかぎりの努力をした人だけです。人知を尽くして、はじめて天命を待つことができるのです。軽々しくしょうがないと言わないで欲しい。特に子供を持つ親は。

どうも昨日から怒りモードに入ってるみたいです。

2011年8月1日月曜日

私がブログを始めた理由

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私がブログを始めたきっかけは、家族との情報共有のためです。家族に危険性を理解してもらうために、自分で集めた情報をまとめておこうと。

あとは、自分の子供のためでもあります。子供がある程度大きくなったときに、お前を育てるのにこんなに苦労したんだぞ、と読んでもらう。

また、記録的な意味合いもあります。

そうならないことを祈ってますが、もしかすると、将来、健康被害の広がりによって、差別が起こる可能性があります。範囲は分かりませんが、特定の地域で生まれ育った人の子供に心臓の障害が現れる怖れがあり、それが結婚差別などに繋がる可能性です。(参考:心臓に障害を負ったベラルーシの子供たち

冷酷かもしれませんが、実際に健康被害をともなえば、それは差別ではあるものの、合理的な側面も持ちます。チェルノブイリの25年後、事故当時生まれた子供たちの子供に、実際に被害が出ているのです。

差別というと、タブーとして見られがちですが、今はタブーを直視することが求められていると思います。タブーから目を背けて、放って置いたから、今の状況になってしまっているのです。

このブログは、そのときの証明としての記録でもあります。

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放射能を避けようと努力している人のなかで、食べ物の汚染について、あまり周囲に広めなくてもいいのではないか、という意見があります。

危険性を理解せず、なんでもパクパク食べている人は、そのまま食べておいてもらえば良い、と。彼らまで気をつけ出すと、安全性の高い食品が奪い合いになり、価格が高騰してしまう恐れがある、という考え方です。

でも、そのまま放っておくと、危険な食品は一向に無くならず、放射能を含んだ肥料や飼料がばらまかれ、日本の食材はすべてダメになってしまいます。だから、大多数の人がその危険性を理解する必要がある、という考え方もあります。

とはいっても、ところかまわず近くにいる人全員に話しかけて、危険を説けば、逆にこっちが危ない人と思われて、徒労に終わるだけ。私は一度、電話で罵倒されました。

だから、私はブログで不特定多数に発信することで、自ら知ろうとする人に伝われば良いと考えました。天はみずから助くる者を助く、です。

「検索ワードを入れてクリックする」というのは、テレビを見るのとは違って、能動的な行動です。受動的な行動をいくらしてても、なにも変わりませんが、能動的な行動を取ると、人生になんらかの変化がもたらされます。

と、こんな感じでブログをやっています。そろそろ疲れてきましたが、ボチボチやっていこうと思います。

2011年7月31日日曜日

天はみずから助くる者を助く。

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天はみずから助くる者を助く。
Heaven helps those who help themselves.

──サミュエル・スマイルズ

私は、この言葉を三浦綾子の小説『塩狩峠』で知りました。たしか、主人公のキリスト者の信条として描かれていたと思うのですが、ずっと前に読んだのであやふやです。ずっと聖書の言葉だと思っていましたが、違っていました。

英国の作家、医者であるサミュエル・スマイルズの著書『自助論』の序文に書かれた言葉とのことです。この言葉は、社会経済学の巨人、マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で取り上げられ、日本では、福沢諭吉によって広められたといわれています。

意味としては、他人をあてにするのではなく、自助努力する者が最終的に救われる、といった感じでしょうか。

2011年7月29日金曜日

法律は性善説に基づいて作ってはいけない。

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「沈黙の艦隊」という漫画があります。とても面白い漫画ですが、そのなかで特に印象に残っているのは、アメリカ大統領の考えです。

(引用)

私は政治家として人間の“悪意”というものを確信している!
人間の善なるものを信じてはならない!

世界の全てが賛同しても
それが人間の善なるものに依拠する考えであるならば
合衆国大統領はたった一人でもそれを信じてはならないのだ!

その戒律で私は政治を行ってきた!

善なるものを守る権力とは
善なるものの力を頼りにしてはならないのだ!

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人々の善意を守るためには、政治家は人の悪意を前提に行動しなくてはならない。
法律は性善説に基づいて作ってはいけない。

この考えに私は非常に納得しました。
こうした深い信念を持っている政治家は、日本に何人いるのでしょうか。

2011年7月9日土曜日

軽薄な「がんばれ」と中島みゆきの「ファイト!」

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ただでさえ自殺の多いこの国で、震災以後、自殺者がさらに増えているようです。
自殺増加の原因を調査した内閣の報告では、5月に自殺した女性タレントの影響だと言ってます。いったいぜんたい、どこまで腐ったら気が済むんでしょうかね。

自殺者急増、人気女性タレントの影響? 内閣府参与報告

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「がんばれ東北」「日本はひとつ」

この国ではこんなメッセージに溢れていますが、聞くたびにやはりイラッとしてしまいます。自己満足のためだけに発せられる善意の言葉に嫌悪感が生まれるのは、やはり自分のなかにも同様の軽薄さがあるからなのでしょう。

中島みゆきの「ファイト!」を聴いて、その違いを感じました。


ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水のなかをふるえながらのぼってゆけ

私にはこの唄を評論する力はありませんが、とにかく、苦しさを共有しないと何も伝わらないのだ、と。

そして重要なのは、これは若い世代へのエールだということです。



2011年6月27日月曜日

プラセボ効果とノセボ効果

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医薬品の開発をする際に、プラセボ(プラシーボ)との比較が行われる。

プラセボとは偽薬効果と呼ばれるもので、本物の薬を飲ませるグループと薬理的作用のない偽薬を飲ませるグループに分けて、有意的な効果があるかどうかを調べることだ。

どんな薬でもプラセボ効果は一定数起こることが分かっている。病気に効く薬だと信じ込むことで、客観的な改善が見られるのである。ここで重要なのは、“気のせい”ではなく、実際に症状として表れるということだ。

プラセボの逆作用としてノセボ(ノーシーボ)効果というものもある。偽薬の服用を止めた途端に症状が悪化したり、副作用の無い偽薬の副作用が出現するというものだ。

放射能における症状でも、プラセボ・ノセボからは逃れられないだろう。
実際の物理的影響ではない症状が現れるということである。

人間の体は、現代の医学では測り得ない能力を持っている。体は自ら病気を直し、病気を作り出す。

だから、山下教授の言う「笑っていれば放射能の影響は無い」というのは、ある面では真実なのだ(といっても山下教授は殺人罪で問われるべきだという意見に変わりはない)。

思考や感情は、間違い無く人体に作用を及ぼす。でも、それをコントロールできるかどうかは別の話だ。

私は「人体にはプラセボやノセボといった作用が起こる」と自覚することが、重要なのではないかと感じている。

「言葉は不完全だ」と自覚することが、人の行動を変えるように、プラセボを自覚することで、自分の体が変わるのではないか、と。

うーん、よく分からないが、どうも私は「自覚」をキーワードに考えているらしい。

遠い国になりつつあるニッポン

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時間が経つにつれ「正常性バイアス」は強固になっていく。3カ月が経ち、私自身の感覚も不感症のごとく、鈍くなっているのを実感している。

で、2ちゃんねるの原発情報スレに、こんな書き込みがあった。

749 名前:名無しさん@お腹いっぱい。(北海道) :2011/06/26(日) 18:10:41.77 ID:XbtX+l7w0

東日本大震災の後、今まで聞いたこともない「貞観地震(869年)」が取り上げられるようになり、9世紀後半という時代は、貞観地震だけではなく大きな火山の噴火(富士山、阿蘇山、鳥海山、八ヶ岳など)や関東直下型地震、太平洋沖の東南海、南海地震などが連続して起きており、結局これらが原因で奈良、平安と続いた律令体制が崩壊しています。9世紀後半の30年ほどの間に、なぜ大きな自然災害が連続して起こったのかは解りませんが、起きるときにはそれぐらいの自然現象が起きるということでしょう。

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平安時代よりも科学は発達したが、原発災害というオマケがついてくると、ひとつの地震が与える被害は当時と比べものにならない。人間の愚かさは発達していないうえ、技術が進歩した分、質が悪い。

浜岡は停止されたが、安定した冷温停止に至るまでに3年かかるとも言われている。東海、東南海地震が来たら、浜岡はアウト。さらに四国の伊方もダメになる可能性がある。若狭湾で地震があったら、北半球が危ない。また、玄海原発は老朽化で壁がガラス状になっており、何か起こらなくても危ない。

こんななかで災害や事故が続けば、律令体制が崩壊するだけでなく、物理的に人間が住めないようになる。そうなったら外国に行くしかないが、よほどの資産があるか、外国語が流ちょうに話せてすぐに仕事を見つけられるかでないと難しい。

それでもいまだに、日本人は(私も含めて)、どんなことになっても、最後には“誰か”が助けてくれると考えているフシがある。アメリカ? 国連? 八百万の神?

これこそが正常化バイアスによるもので、でも、そんな願望が甘いことは、すぐに理解できる。海外で起こった災害の報道を、いままで自分たちがどのように見てきたか思い出せばよい。

ハリケーンで家を失った人、テロで死んだ人々、餓死する子供たち。海外でどんな悲惨なことが起こっても、人間はあまり感情的にならない。遠い国の出来事まで気にしていたらキリが無いからだ。

まさに日本は、その遠い国になりつつある。

2011年6月26日日曜日

40年間、孤独な敗北を続けてきた小出助教

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今回の災害で最も有名になった人物といえば、やはり京都大学原子炉実験所・助教の小出裕章氏、です。この人はいままで、40年間孤独な敗北を続けてきた、のです。

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小出助教インタビュー

わたしは原子力の場にいる専門家として、専門的な意味でも原子力というのはとても許せないと思って、反対をしてきました。でもわたしが原子力に反対する根本の理由は違います。わたしが原子力に反対する根本の理由は、自分だけがよくて危険は人に押しつけるという、そういう社会が許せなかったから、です。電力を使う都会には原発を作らせないというのもそうですし、原子力発電所で働く労働者は本当に底辺で苦しむ労働者であったりする、わけです。そういう社会をわたしは認めたくないので、原子力に反対してきました。

わたしは40年前に原子力をやめるべきだと言い始めた人間ですけど、わたしが原子力をやめるべきだと思ったときには、日本に原子力発電所は3基しかなかった、のです。東海の1号炉という、もうすでに廃炉になりましたけど、それから敦賀、御浜という3基しかなかった。それ以降わたしはなんとか原子力をやめさせたいと思ってきたわけですけれど、さっき聞いていただいたように、もうすでに(現在の日本には)54基ある。ですからわたしはもう、敗北の歴史をずっと辿ってきている、わけです。なんとか止めたいと思っても、その方策がとうとう見いだせないまま今日まで来ている、わけですから、今、どうしたらいいのかと問われたわけですけど、わたしは分からない。分かれば、やるのです自分で。

ただ、わたしのような特殊な人間がいくら反対したところで、止まらないということ、なのですね。だから普通の皆さんが原子力というのはどういうものなのかと、いうことに気がついてくれること、つまり技術的にも危険だということにまず気がつかなければいけないし、ことの本質はそんなことではないと。さっき聞いていただいたように差別の問題なんだと気がついてくれれば、止められるだろうとわたしは思っている、のです。ただし、こんな事故を目の当たりにしながらも、日本の多くの人たちは「停電になったら困るから原子力だ」といまでも言ってるんですね。まあそんなことを聞くと、わたしはもう勝手にしてくれと実は思ってしまう。言葉悪いけれども、本当に情けない国民だと思います。

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下は平成17年に行われたプルサーマル公開討論会の様子です。
推進派の学者に嘲笑される小出助教、観衆は推進派の発言に拍手を送っています。




2011年6月23日木曜日

「なんか良いことしてる気分」で節電しないこと。

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久々に朝のテレビ見ましたが、どのチャンネルも節電の話題。
で、せっせと節電して暑い暑いと言う人々が映ってましたけど。

なので、だいぶ前にも貼りましたが、もっかい貼ります。


今現在でも、火力と水力で電力は足ります。
これに再生可能エネルギーができれば完璧です。

節電しろと言ってるのは、東京電力をはじめとする電力会社です。
「電気が無いと困るだろ〜、だから原発は必要なんだよ〜」という妖怪チックな脅迫なんです。

少なくとも、一般家庭が節電する必要はまっっったくありません。
それに社会的に有益な企業が節電したら景気は落ち込んでいきます。

節電に励んで「なんか良いことしてる気分」に浸ってる場合じゃありません。

そんなヒマがあるのならクーラーで頭をすっきりさせて、発送電分離が実現できたら電気代が半分以下になることを知ってください。

バカ高い日本の電気料金
http://bab.liblo.jp/archives/2807608.html

電気料金
日本    17円/kwh
米国      6.7円/kwh
韓国      6.21円/kwh
中国      9.07円/kwh

セブン&アイホールディング会長 鈴木敏文
「今でも電気代が高いですよ。うちでも海外店舗と比べると2倍から3倍も電気代が高い。それが産業の足かせになっている事は事実です」
今までも電力自由化の議論が経営者サイドから立ちあがった事があったというがそのたびに、政財官とガッチリスクラムを組む電力業界の厚い壁に跳ね返されてきたという。
「ある企業経営者が、『なぜ電気料金を下げられないのか?』と東電幹部に質したところ『下げてもいいけど停電しますよ』と言われ『よく客に向かって努力もせずに、不良品になりますよと言えるな』と唖然としていたということもありました」
(以上 週刊文春より抜粋)

関連エントリ
やっぱり原発は最初っからいらなかった

追記 2011/06/23 16:40
テレビ朝日のモーニングバードでは「節電デマ」について触れたみたいですね。
その特集も今度放映するみたいです。

子供より親が大事

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ウインブルドンを横目に仕事しようと思ったら、あまりに素晴らしいゲームで釘付けに。
クルム伊達、男前すぎる。あと一歩の差でヴィーナス・ウィリアムズに負けました。

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ところで「子供より親が大事、と思いたい」と言ったのは太宰治ですが、私も親になるにあたって、そのスタンスで行こうと思っています。

よく「自分はいいけど子供だけは」とか「大人は大丈夫でしょ」とか聞きますが、放射能は子供だけに影響するものじゃありません。大人だってガンになったら死にます。

自分の身を守ることに必死になることは、まったく恥ずかしいことじゃありません。必死にもがいて生きる方が、あるいは必死にもがいて死ぬほうが、変にクールぶってるよりも格好いいと思うわけです。

なんか、放射能を怖がることが格好悪い、みたいな空気を感じたので。
つーか、放射能は怖いものでしょ? 常識的に考えて。

いいかげん仕事しよう。

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